後藤見聞録

2018/11/30

たまにはとどめておくことも必要ではないかと。

屋号は高校生のときになんとなく考えていたものです
そしてこの「モリモリマン」は同じ頃によく書いていた後藤の化身です

中学生時代、クラスの文集の構成をしたことでなんとなく文章を書くことに目覚め、高校時代に図書委員会の広報紙を週刊で発信することで「人にものを伝えることのおもしろさ」を味わい、大学生時代にBBSという掲示板スタイルで色んなことを書きなぐり始めて「アウトプットの前にインプットが重要である」ことを学んでから、はや20年ほどが経過しました
その間に、私はエセ物書きから営業マインドという武器を手に入れて無理やりプロ物書きへとなんとか昇格し、「考える」「企てる」「綴る」「紡ぐ」「えぐる」といった行動を通して、お仕事を頂けるようになりました

高校生くらいまではガリ版刷り(たぶんこの表現は間違っていて、もっと昔の印刷技術なんだけど好きなのでこのまま使わせてください)だったから手書きでしかものを発していなかったので、私の活字体験は「受験費用を稼ぐ」という邪な理由で新聞に投稿したときが最初です
それまでにも、作文が何かに載ったりとかはしていましたが、学校フラグの立っていないところで自分の文章が活字として形になった体験は、たぶんこの新聞だと思います

そして大学生になった頃、i-modeの登場と学内PC使い放題という環境を手にしたことで誤字脱字も含めて画面の向こうで自分の言葉が「活字」となることがたやすくなり、世間も随分とこの「活字にまみれる」スタイルに慣れてきたように思います
そんな中、ブログからSNSにシフトし、目の前を数秒で駆け抜けていく情報に頭のてっぺんまで浸かってしまっている昨今、それでも人が「読みたい」「知りたい」という欲求を抱えていることに、薄々気づいてはいました

え?どういうことかって?

無意識に受動する情報ではなく、自分の中から「欲しい!」と思える情報とめぐり逢いたい、という欲求、皆さんにはありませんか?
実はここまで書いておいてなんですが、私自身にはそれはあまりありません
まぁそれはそうですよね、そんなことを考える時間があったら目の前にあるネタをちゃんと世に形にして出してくれよ、と言われる立場にあるのですから

「良質な文章を読みたい」のであれば作家さんの小説を読めばいいし、「正確な情報が欲しい」のであれば辞書や事典を引けばいい
ただ、その単体の情報や感情を強引に横木でズカズカ渡ってしまうような、手荒だけどどこか心地よいもの

たぶん、それが私が個人的に発している文章の様相ではないかと思っています

なんか小賢しそうに見える文章を並べてきましたが、
「SNSだと垂れ流されてしまう言葉たちを、積層する場所としてサイトを見直し、リニューアルしたのでこれからは真面目に書きます」
という感じです
でもって、ノンメディアな私を相変わらずレセプションや試写などに呼んでくださる映画の配給さんや飲食店関係の方々、音楽関係の皆様などに少しでもお返しできるよう、文字通り「後藤が見て聞いてきた記録」としてここに綴っていこうと思います

「あーちょっとだけ時間あるんだけどなんかサクッと読めるものないかなー」
というアイドルタイムに、どうぞ